オーストリア3

あちこち歩いていると、いろんな人物に出会った。電車に乗っていると隣に人が親しげに「お前は日本人か?」と興味深げに訪ねてくる人、住んでいる人間と間違えられ道を尋ねる外国人。酒場に入るとしつこく日本について聞きたがる人・・・「東京のような小さい街にあれだけの人がいて夜寝るときは重なって寝るのか」と冗談半分に聞いてきてビールをおごってくれる地元民。とにかく面白い、人間バンザイ!!

ウィーンの名前の由来

ウィーンという名前がいつ頃出来たのでしょう。ウィーンというこの名前が初めから付けられていたのではないのです。ローマは紀元前15年頃から領土の拡大を開始するため、ヨーロッパ各地をローマの属国とする為、侵攻していきました。一世紀頃、北部にはゲルマン系の部族がいて彼らの侵略を防ぐため、ローマ帝国軍はいまの「ウィーン」の辺りまで来て、軍事基地を作りました。この軍事基地の名前をローマ人は「ヴィンドボナ」と呼んでいました。
ヨーロッパは当時の「ヴィンドボナ」を境にし、ローマ皇帝アウグストゥス(Augustus)がローマ帝国の平和を維持するためにゲルマン人と戦っていたのです。ローマ軍としてはゲルマン人をもっと北の方に押しやりたいのですが、ドナウ川を境に攻防していたのです。(ドイツのアウグスブルグはアウグストゥス皇帝の名前からなので実際にはドナウより北へ進行しています)
ゲルマン人との攻防は長くに渡り、「ヴィンドボナ」は要塞化していき街は頑丈な城壁で囲まれました。これが現在のリンク(ウィーン)にあたります。
771年にフランク族カロリング王朝の皇帝となったカール大帝はフランス全土を統一した後、東へと領土拡大していくのです。791年から799年の間にカール大帝は当時ドナウ地域に定住していたアヴァール人を征服し、この地域を『アヴァール辺境領』と名付け、キリスト教の影響下に置くことに成功します。
その間北方のモラヴィア国とカロリング王朝との摩擦は続き、ハンガリーの騎馬民族マジャール人が870年から880年頃カロリング王朝の東領域に侵入してき、この出来事がザルツブルク年代記の中で881年に"ad Uueniam"(なんと発音するのでしょうか)ウィーンにおいてハンガリーとの戦闘があったと語られてい
ます。ウィーンという名前が文書の中に現れるのはこれが一番最初といわれています。
996年オットー二世の贈与証明書の中に初めて『オーストリア(Ostarrichオスタリチ)』という名前が出てきます。これは東 (ost) の王国 (rich) という意味です。 この出来事をもって、この年がオーストリア誕生の年とされ、1996年にはオーストリア千年祭が盛大に祝われたのです。1030年には再び"Vienni (ウィーン)"という地名がハンガリーとの戦争に関する記述の中に現れるのですが、はっきり今日からこの都を「ウィーン」と名づけると言う文章がありません。東西の掛け橋となっているいまの「ウィーン」は昔から世界の中心地だったのですね。

St. Stephansdom 聖シュテファン寺院の歴史

この大聖堂の建築史は12世紀に始まりましたが、当時の建築は現存しません。リーゼントアーと呼ばれる西側のファサードと「異教の塔」は、1230年?1263年に後期ゴシック様式で建てられました。
ハプスブルク家のルドルフ4世(在位1358-1365)はこの教会をゴシック様式に全面的に建て替えることを命じ、1359年聖堂の中央部分と両側の廊下部分の礎石が据えられました。 南塔は高さが136.7メートルあり、1433年に完成。 1469年には、神聖ローマ皇帝フリードリッヒ3世(在位1439-1493)がローマ法王を説得して、それまでパッサウ司教区に属していたウィーンを、独立の司教区に格上げしました。皇帝はこの大聖堂に埋葬されています。
北塔は68.3メートルの高さで未完成のまま残されていましたが、1579年に代わりのルネッサンス様式の小さなドームが載せられました。18世紀になって大聖堂はバロック様式の祭壇で飾られました。
主祭壇の祭壇画には、キリスト教徒の最初の殉教者となった聖ステファヌスの投石による死が描かれています。 第二次世界大戦のウィーン攻防戦の最後の数日に、大聖堂は火災で大きな被害を受けましたが、オーストリア国民と政府がこの再建に協力し、1948年に盛大な祝祭をもって大聖堂は復活しました

Schloss Belvedere

ベルベデーレとは、眺めとか展望台という意味で、ここの宮殿、上宮から眺める景色の素晴らしさはショーンブルン宮殿以上ではないでしょうか。
リンクの外側、ウィーン南駅の近くにありますこの宮殿はトルコとの戦いで活躍したプリンツ・オイゲン公general Prince Eugene of Savoy (1663-1736)の夏の宮殿として建てられました。
設計者はショーンブルン宮殿を建てたフィッシャー・フォン・エァラッハの後を継いだヨハン・ルーカス・フォン・ヒルデブラント(1668-1745)です。1714年にオイゲン公はヒルデブラントに命じたのです。
ここの宮殿は上宮と下宮の二つの宮殿からなっており、下宮は1716年、2年後に完成。上宮は1717年に着工、1721~1722年に完成しています。上宮のインテリアは翌年に出来上がりました。
1752年にマリア・テレジアはオイゲン公の相続人からこの宮殿を購入しました。
1776年、テレジアの息子ヨーゼフ2世の提案によって「帝国の、そして、王立の画廊」ということでベルベデーレ宮殿の上宮は19世紀、20世紀の芸術家による作品。フランス人の印象主義者、例えば、クロード・モネ, オーギュスト・ルノアール、グスタフクリムトによる傑作, エゴンシーレと オスカーココシュカ、そしてゴッホ、ロダン、ムンク等の作品も収容されています。皆さんのご存知のクリムトの代表作「接吻」もここに納められています。下宮は中世のアート博物館、バロック博物館となっています。

田園、英雄そして運命

ウィーン観光でベートーヴェンハウスを見たいというと「どこのですか?」と言われるくらいベートーヴェンはウィーンの街を転々としていました。ようは引越し魔だったんでしょうかね。それほど多い彼の家は有名なところでは
★ハイリゲンシュタット遺書の家:ヴェートーヴェンの記念館。
最初の滞在である1802年4月から半年住んだ家は、彼がここで1802年10月6日に遺書を書いたので「遺書の家」と呼ばれる。19区にあります。
住所は 19区Probusgasse 6   Tel. 370 54 08

★エロイカハウス:ヴェートーヴェンが「英雄」を作曲した家。夏になると郊外に住むことを習慣としていた彼は、1803年6月からここに滞在し「英雄」の主要部分を作曲。
開館:金曜15-18および予約 Tel. 5058747 19.区Doblinger Hauptstrase 92

そのほかにも、1817年の夏に住んだ家が聖ヤコブ教会に隣接するホイリゲの2階に滞在したと言われています。その建物の側面に「ヴェートーヴェン音楽散歩の案内板」があるのでわかるでしょう。
ヌスドルフには1817年と1824年に住んでいます。「田園」を完成した家は、また別・・・・・・。と、いうように色々と引っ越してます。また、ウィーンばかりでなく「バーデン」にも住んでいました。
こんなベートーヴェン。生まれはご存知のようにドイツのボンで(1770年12月16日~1827年3月26日)生まれました。お父さんは宮廷に仕えるテノール歌手だったが、アルコール依存症であり、人格的に問題があったとされる。そして彼は、1792年11月10日ウィーンに移り住みました。
学校の音楽室には気難しいベートーヴェンの顔が、私は今でもしっかりと覚えています。
ウィーンにお出かけの際にはどんなベートーヴェンに合えるのでしょうね。

Kärntner Straße

初めてウィーンを訪れ、最初にウィーンを実感する場所がこのケルントナー通りではないでしょうか。オペラ座の裏側にある"ホテルサッハー"からシュテファン寺院まで有名店が並んでいるメインストリートは観光客ばかりでなく、地元ウィーン子も良く出かける場所です。
このケルントナー通りはかなり古く、かのバーベンベルク家のレオポルド五世が整備し発展させたそうで、ケルントナー通りの名が初めて文献の中に出てくるのは1257年頃だそうです。このケルントナー通りの名前の由来はケルンテン州の『ケルンテン (Kaernten)』に由来しています。
この道をまっすぐ行くとケルンテンに行きますよ、という意味で、ヨーロッパの通りの名前のつけ方には結構こういった命名法が多いようです。
ドイツにある、『ロマンチック街道』もこの道をまっすぐ行くと"ローマ"に通じていますよ、という意味です。このケルントナー通りもケルンテン州からさらにヴェネチアまで通じ、ウィーンへの貿易街道として発展し、今に至っています。今度訪れましたら、ケルントナー通りをまっすぐ見据えて"ケルンテン""ヴェネチア"に思いを馳せて下さい。